前橋市議会議員 金井きよかず オフィシャル ウェブサイト : 前橋が生んだ剣聖 上泉伊勢守

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前橋が生んだ剣聖 上泉伊勢守

 剣聖と呼ばれる上泉伊勢守秀綱(後に上泉武蔵守信綱)は、永正五年(一五〇八年)に大胡城の支城である上泉城で生まれました。
 平成二十年(二〇〇八年)生誕五百年を記念して、剣聖上泉伊勢守之像を建立しました。この立ち姿は、新陰流の基本である「無形の位」という代表的な構えで、手には袋竹刀を持っています。
 骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
 幼少のころから剣の修行を重ね、松本備前守や愛洲移香斎ほかに剣の指導を受け、新陰流を創始しました。
 現在の竹刀の原型となった袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
 上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、箕輪城主長野業正とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、「上野国一本槍」と呼ばれました。
 京にのぼり、将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を受けました。
 また、正親町天皇の御前で天覧演武を行い、従五位下から従四位下へ昇叙され、天皇ご愛用の御前机を拝領しました。
 さらに、公卿の山科言継卿との親しい交友も知られています。
 柳生宗厳(後に柳生石舟斎)や宝蔵院胤栄や丸目蔵人佐ほかおおぜいの弟子に剣を指導して、新陰流は全国に広まりました。
 そして、一国一人とした新陰流の後継者には柳生宗厳を選び新陰流のすべてを印可相伝しました。こうして新陰流は、柳生家により受け継がれています。
 上泉伊勢守の精神は「活人剣」であり、人を活かす精神として徳川三百年の礎を築き、明治・大正・昭和の時代を経て脈々と伝わり、そしてこれからも末永く、広く人々の生活や仕事など多方面に活かされていくことを願ってやみません。

(剣聖 上泉伊勢守 生誕五百年 記念碑より)

[ LINK ] : 上泉伊勢守顕彰会HP



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